作品紹介
ファン・ゴッホ家の
コレクションから
ファン・ゴッホ美術館へ
本展でご紹介するファン・ゴッホ家のコレクションの歴史は、フィンセント・ファン・ゴッホの死後、その作品の大半を弟テオが受け継いだところから始まります。本章では、コレクションを継承し、フィンセントの作品を世界へ広めることに貢献した3人の家族をご紹介します。
フィンセントとテオのコレクションはヨーと息子フィンセント・ウィレムが相続し、ともにオランダへ渡る
テオの墓がフィンセントの眠るオーヴェール=シュル=オワーズに移される
数年後、フィンセント・ウィレムが作品の販売をやめる

中央:アンナ・コルネリア・カルベントゥス(ヨーの義母)
右:フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ


フィンセントの弟

フィンセントの義妹

フィンセントの甥
- *1Credits of the photos: Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent Van Gogh Foundation)
- *2©:unknown
テオドルス・ファン・ゴッホ
愛称テオ、1857-1891
フィンセントの弟。画家になると決意した兄を経済的・精神的に支え続けた。1873年、15歳で伯父の紹介により美術商グーピル商会のブリュッセル支店で働き始め、ハーグ、ロンドン勤務を経て、1879年にパリへ移る。印象派をはじめとする前衛的な美術にも高い関心をもち、フィンセントの芸術観にも影響を与えた。支援に対して兄からはその成果が送られ、彼のアパルトマンはフィンセントの作品で溢れかえっていたという。フィンセントの死後、回顧展の開催に奔走するもしだいに体調が悪化し、兄の半年後に死去。テオの遺産には、数多くのファン・ゴッホ作品に加え、兄弟で収集したほかの画家の作品や浮世絵、フィンセントからの多数の手紙が含まれていた。
ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル
愛称ヨー、1862–1925
フィンセントの義妹。オランダの中流家庭に生まれる。オランダで英語教師や翻訳家として働いた後、兄の友人だったテオのプロポーズを受けて1889年4月に結婚。パリで新婚生活を送りながら、美術への造詣を深めた。1891年1月のテオの死により帰国。テオの財産の半分を相続し、このとき1歳に満たなかった息子が21歳になる1911年まで、彼の相続分も管理していた。展覧会への貸出に加え、定期的に作品を売却したが、親子の生計のためだけでなく、フィンセントの評価の確立を目的としたものでもあった。テオへ宛てられた膨大な手紙を整理し1914年に出版。死去する前年1924年には、ロンドンのナショナル・ギャラリーのために《ヒマワリ》を手放し、フィンセントの名声を確固たるものとした。
フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ
愛称エンジニア、1890–1978
テオとヨーの息子でフィンセントの甥。フィンセントは彼の誕生を祝って《花咲くアーモンドの枝》を描いて贈った。フィンセントの作品に囲まれて育ち、エンジニアの職に就いた。ファン・ゴッホ家のコレクションに深く関わるようになるのは1945年以降のことである。ヨーの死後数年経つと作品販売を止め、一家のコレクションが散逸せず保持されるよう尽力した。1960年にフィンセント・ファン・ゴッホ財団を設立し、1962年にコレクションの大部分の所有権を財団に移譲した。財団は、美術館に膨大なコレクションを永久貸与することを約束し、アムステルダム市から土地の提供を受け、オランダ政府が美術館を建設。1973年に国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館(現ファン・ゴッホ美術館)を開館させた。
フィンセントとテオ、
ファン・ゴッホ兄弟のコレクション
兄弟のコレクションは、ふたりが生きた時代の雰囲気を伝えてくれるとともに、フィンセントの芸術を理解する大きな手がかりとなります。フィンセントとテオはともに十代半ばから画廊で働き始めていて、手頃な価格のグラフィック・アートは若いころから身近なものでした。彼らは版画(オリジナル、複製含む)を買い、ときに贈り合います。画家になる決意をしたフィンセントは、特にフランスやイギリスの雑誌に掲載された挿絵から大きな影響を受けました。
パリでは同時代の美術も収集します。フィンセントが自らの作品と交換で手に入れた作品は、このとき彼が画家仲間から得ていた評価を示すものでもあります。浮世絵を熱心に購入したのは主にフィンセントで、芸術的な刺激を受けるだけでなく、すでに値が上がっていた印象派の主要画家の作品を、これらと交換で何とか手に入れようと意図したものでもありました。




いずれもファン・ゴッホ美術館、アムステルダム (フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画と素描
フィンセント・ファン・ゴッホが画家になる決意をしたのは比較的遅く、1880年、27歳のときでした。最初の3年間は主にハーグで素描の腕を磨き、その後ニューネンで油彩画に取り組みます。1886年にパリに出ると、自らの表現が時代遅れであることに気づき、新しい筆づかいと色彩表現を取り入れ、独自の様式を生み出していきました。1888年2月に南仏に移り、アルルで1年3ヵ月、サン=レミ=ド=プロヴァンスで1年を過ごし、自らの表現様式を確立しました。1890年5月にパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズへ移ります。新しい芸術の可能性を試み続けていましたが、自らの胸部をピストルで撃ち、7月29日に37歳で息を引き取ります。わずか10年という短い画業で驚くほどの数の作品を制作しました。
ファン・ゴッホ家が受け継いできた200点を超える絵画、500点以上の素描・版画は、現在ファン・ゴッホ美術館に保管され、世界最大のファン・ゴッホ・コレクションとなっています。
オランダ
12月末、父親と口論になりハーグに移り住む


いずれもファン・ゴッホ美術館、アムステルダム (フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
ヨー・ファン・ゴッホ=
ボンゲルが
売却した絵画
ヨーはテオと結婚する前には特に美術に縁があったわけではありませんでしたが、パリでテオと暮らしながら、しだいにファン・ゴッホをはじめとする近現代美術に関する知識を身につけました。テオから膨大な作品を受け継いだのちには、個人収集家や美術館の世界、美術取引の仕組みについても精通してゆきます。ヨーが定期的に作品を売却したのは、親子が生計を立てるためでもありましたが、フィンセント・ファン・ゴッホの評価を確立するという大きな目的のためでもありました。こうしたヨーの尽力を明らかにするのが、テオとヨーの会計簿です。テオの死後には作品の売却についても記されるようになり、ヨーがどの作品をいつ誰にいくらで売却したのか、生々しい記録が残されました。会計簿の調査・研究は進み、記載されたもののうち、170点以上の絵画と44点の紙作品が特定されています。


コレクションの充実 作品収集
1973年、ファン・ゴッホ美術館は主にフィンセント・ファン・ゴッホ財団のコレクションを展示する美術館として開館しました。ファン・ゴッホ作品と家族に受け継がれてきたほかの画家たちの作品を中心としながら、今日までにそのコレクションは少しずつ拡充されてきました。
1980年代後半から1990年代前半にかけては、寄付や寄贈の恩恵を大いに受け、ときにはファン・ゴッホ作品が加わることもありました。この時期に潤沢とはいえない予算を使って購入されたのは、ファン・ゴッホと関連のあるバルビゾン派やハーグ派、象徴主義の作品です。また、1990年代の終わり頃からは版画やポスターなどの紙作品の収集にも力を入れます。このコレクションはいまや世界屈指の質を誇るものとなりました。さらに収益が美術館にも分配される宝くじができると、これまで購入が難しかった作品が購入できるようになり、印象派やポスト印象派の作品をはじめ重要な作品が加わりました。

